看板はもともと中国(唐)から渡来したものである。中国の看板には二種類あり、一つは招聘(チャオパイ)、他は望子(ワンズ)と呼ばれている。招聘は文字看板、望子は形態看板である。
わが国の看板の始まりは、平城京や平安京の東西市に”標(しるし)”として掲げたものとされている。また、看板とともに暖簾(のれん)も、古くから屋号や商品名を表すサインとして用いられていた。
やがて江戸の文化・文政期には、大衆文化の成熟を背景に、多種多様の看板が作られるようになる。中には芸術的にも優れた造形美を見せるものや、洒落(しゃれ)と機智に富んだ看板も現れた。
当時の看板を屋内、屋外に分けると、屋内では店内の装飾と宣伝を兼ねた衝立(ついたて)式の置き看板と、壁にかける懸(かけ)看板や飾り看板などがある。置き看板は大阪では「出し襖(ふすま)」と呼ばれた。
屋外では軒下に吊るす軒看板がもっとも多く、柱や壁に立て懸ける立看板、店先の道路上に置く置き看板、ひさしの上に乗せる屋根看板、そのほか表障子を利用した障子看板などがある。道路上の置き看板は、行灯型など立体的なものが多く、閉店後店内に取り込む小型のものと、石台をつくって支柱を立てる豪華な常設の 建植(けんしょく)看板もあった。ほかに夜間用の行灯型、提灯(ちょうちん)型の看板などがある。
京や大阪は江戸に比べて道幅が狭いため、軒看板よりも屋根看板が多用された。江戸では建植看板や軒看板に華美を競い、金銀箔を使った金看板などもつくられるようになり、しばしば幕府は奢侈(しゃし)禁令を出して戒めた。
看板においては文字によるコミュニケーションより、絵表現の方がインパクトが強い。例えば足袋屋は足袋の形に、くし屋はくしの形に板を切り抜いて、そこへ文字や絵を描き、彫刻を施すことが流行する。この種のものには、日本的な造型の美しさと、雅趣あふれる看板が多い。
これに対し、判じものや洒落を使った看板がる。中でも有名なのは、焼芋屋の「十三里(じゅうさんり)」と書いた看板である。”九里四里うまい”で、”栗よりうまい”という意味である。その他、銭湯の入り口に弓矢を吊り下げ”弓射る”すなわち、”湯入る”、将棋の「歩」の駒の大きいのを吊り下げ、”中に入ると金になる”というので質屋を意味したなど、枚挙にいとまがない。また、シンボル的な看板としては酒造店の「酒林(さかばやし)」がある。杉葉を丸く束ねた杉玉を軒下に吊るしたものであるが、杉が酒樽として耐久力があり、酒の醸造に適していることから用いられた。
明治時代になると、日本の看板はその独自性を喪失し、絵看板に代わって文字看板が多くなる。学校教育の普及により、文字の読めない人が減少したことがその一因であると考えられている。
一方、欧米の文明が渡来するに伴い、横浜や神戸に横文字の看板も姿を見せるようになる。理髪店のねじり棒などもその当時のシンボルサインである。
やがて大正から昭和にかけて、鉄道の発達に伴い、仁丹や中将湯などの野立看板が、新聞や雑誌メディアと連携して各地の沿線に立てられる。